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3月2日(火)本来ならばお休みの日ですが、中西さんが関西からやってくる、ということで、急遽アーティストトーク、レセプションを開催しました。皆さん「ストライプ・ドローイング」の制作方法に関しては全くどうしているのかわからず、非常に興味を持っていたようです。今回展示しているくらいの大きさならまだなんとなくちびりちびりと鉛筆を動かして縦に平行線を引いていくのだろう、くらいのことは想像がついていたようですが、徳島で制作したような高さ5mの壁一杯に描くのはどうするんだろうと、誰しも思っていたようですが答えは意外と原始的というか素朴というか、五円玉を紐に結んで垂らし、それと平行に縦ラインをリフトを昇降させながら描いていき、結果全身筋肉痛になってしまった、という悲しくも滑稽な裏話を語ってもらいました。 そのほか今回の作品とは全く別のスカパービル(Sky Perfect TV本社ビル)のパーマネントインスタレーションの作品とか豊田市美術館で現在開催中の「知覚の扉」に出品しているスライドフィルムによるレイヤー作品全作品とかも映像で紹介してもらいました。 さらに昨年福岡市美で発表した動画によるレイヤー作品のコンセプトなども解説していただき、なぜ動画がレイヤーなのかということもよくわかり、皆さん納得していたようでした。 大学で彫刻を専攻した中西さんですから彫刻作品の話も面白く聞かせてもらい、現在制作している作品群との関連なども明確になりました。そのあとは焼酎をメインとした宴会の始まりです。関西は日本酒の本場(灘、伏見)ということでいまだに焼酎は蔑視されているようで、なかなかいい焼酎が手に入らないということで、関西に住む中西さんのためにそういう選択となりました。皆さんよく飲んでよく食べ、よく喋り、非常に楽しい時間をすごすことが出来ました。 [写真上はスカパービルのインスタレーション。よく見るとストライプです。下は楽しい宴会の様子です。真ん中が中西さん。]
前回ご紹介したのとは別の形のレイヤードローイングもあります(数から言うとこちらの方が俄然多いと思います)。
出来上がったものを見る分には実に簡単。要するにカメラにポジフィルムを入れて、被写体を時間の経過の中で何回も撮る。この行為を繰り返し、写真屋さんに持っていって現像してもらい、マウントされて返ってきたものを積み重ね、固定して光箱の上に並べる。これだけの話ですが、これはまさに“コロンブスの卵”的な見方で、こういった方法を思いつく発想が素晴らしい、というもの。 アートとはやはり誰もやっていないこと、新しい表現を追及してそれを具体化することに意義がある、ということを改めて感じさせられる作品だと思います。これは時代を遡って考えてみてもいえることだと思います。例えば何故にレオナルド・ダ・ヴィンチが天才だと言われるのかを考えてみればよくわかります。イタリア・ルネッサンスの時代にあって、ジョットやマザッチョといった先達がいたにせよ、透視図法、遠近法といった科学的な描写法をより完璧なものとし、先達たちが達成できなかった二次元平面における立体的表現に到達できたことに意味があるのです。さらにヨーロッパにおいては北方に端を発する油彩画をいち早く取り入れ、それまでのフレスコ、テンペラに見られた製作過程の制約、作品の脆弱さから絵画を解放し、より自在な制作方法を確立したことも特筆すべきといえましょう。但しあの有名な《最後の晩餐》(=サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ修道院/ミラノの食堂に描かれている)に関しては油彩画で壁に直接描いたことが失敗でした。壁画を油彩で描くということも誰もしていなかったことですが、こればかりはあまりにも無知だったとしか言いようがありません。完成直後から剥落が始まり、さらには第二次世界大戦中爆撃から守るためにその前に土嚢が積まれ、湿気を大量に含んだため殆ど見えないくらいに劣化してしまいました(私が最初に見たときはまさに殆ど形が見えないくらいに傷んでいました。そのせいかどうかは知りませんが入場料などはナシ)。それはさておき、中西さんのこのスライドフィルムの作品はまさに先例のない実にユニークな制作方法といえます。写された対象は海の波、木立、ろうそくの炎といった至って日常的で、何処にでも見られるものですが、一枚一枚全部違う形のものを定着し、それを24枚重ねたものを光に透かして見ると、全く違う幻想的で、どこか遠い世界に誘われるような感じに陥ってしまいそうです。この感じは実際に現物を見てみないとわからないものですから是非一度足を運んでみてください。
今回出品されている「ストライプ・ドローイング」は去年の11月から12月に掛けて制作された新作ばかりです。
ストライプ・ドローイングとはあまり一般的ではない言葉ですから、知らない人、見たことのない人は一体どんなものだろうか、と想像力を働かせることになるでしょう。実際、私のところに訪れて現実にストライプの作品を目の当たりにした人の中には、墨絵と思い込み、墨絵にしては濃淡のない作品だな、と言った人もいるくらいです。 確かに墨絵のように見えないこともない作品ではありますが、作品に近づいてよく見るとそのタイトル通りに、鉛筆によるストライプが等間隔で描かれ、白い部分は紙の地の色のままに残されていることがわかります。しかも鉛筆による縦の線はフリーハンドで描かれているため、多少の歪みや濃淡の変化、入れの部分と止めの部分のニュアンスをはっきりと見て取ることが出来ます。 物理的には鉛筆によって線が引かれており、通常ならそれ自体が何がしかのものを示す形となっているのが当たり前でしょうが、中西作品においては線そのものが何かになっているわけではなく、平行に引かれた線が集まってはじめて何らかの形となって可視化されているのです。 左に示すのは今回の出品作「Stripe Drawing _ Circulation」で、57.5×76.6cmという大きさのものです。これを全体として遠くから眺めると、池のうえで氷の上に積もった雪がだんだんと融けていっている、或いは大きな船が通ったあと波が泡立っている、といった自然の現象のように見えたりもしますが、その部分を拡大した図(下図)を見て見ますと単に垂直に引かれた線が集積しているだけだという事がわかります。結果として私たちは、画中に何らかのものの形を見出すことが出来るのですが、しかし単に線を引きながら最終的な形を想定して描いているのでしょうが、それは一体どうやってできることなのか、凡人には想像がつきません。 3月の第1週くらいに中西さんが福岡にやってきますので、そのときにトークをしてもらい、その秘密を明らかにしていただこうと思っています。
今回の展覧会では『ストライプ ドローイング』はかなり大きな作品も展示してありますが、レイヤーの作品は小さいものです。しかし中西さんが美術館等で展示した作品には大きなレイヤー作品があり、人はその行列の間を通っていくことによって作品の全容を見ることが出来るような仕組みにになっています。
作品が大きくなればなるほど、作品と人間の関係をきっちりとさせておく必要性が重要となってくるが、そのあたりについて中西さんは「ものを見るということ」といった視点から文章を書いているので紹介します。 >私にとってのものを見ることとは 対象を観察して物体に置き換える塑像や描写という行為により得た経験から『ものを見るということ』について自覚したことが多くある。その体験の中で感じられたことに、「部分と全体」「ネガとポジの意識」「時間と記憶の集積」「視覚の触覚性」「身体の置き換え」があげられる。 これらは、ものを見て体を動かし物質と空間を削り運搬する「労働」を通じて感じられたものの見方である。私にとっての作品とはものを思考、認識する過程であり、世界の捉え方そのものであると言える。 私が見るとき、特に作品を見ることにおいて『身体の置き換え』がものを捉えるということの中心にある。 例えばミケランジェロの彫刻を見る時、奴隷のポーズ、表面を覆う骨と筋肉の流れは私たちに同じポーズをしたときの肉体の痛み、拘束感を思いおこさせる。それは単なる肉体の痛みだけでなく奴隷の精神の痛みであり、また作者の視点に置き換わった感情であるとも言える。私たちの視線と肉体は奴隷の肉体と精神に置き換わる事も出来れば、刻まれたのみ痕を通じてのみをふるう作者の力と感情に置き換わることもできる。人間がものを見るという行為は身体の置き場所を探る行為であるとも言える。 また、人体のような具象的なものに留まらず、空間自体にも同様の身体の置き換えや拡張が見られる。例えば、微細な顕微鏡の中や遠く宇宙の銀河の様子、霧の出る寒い朝の風景などはものの輪郭、遠近、水平、大きさを曖昧にし、空間いっぱいに充満する水蒸気は遠くの山並みから網膜の表面にまで地続きに満ちていて、冷たい空気は皮膚の毛穴を刺激し、目や鼻や口の奥に入り込み、体の内部を感じさせ、身体の外と内との境界を曖昧にさせる。このような風景の中では自分の身体は溶け出して水蒸気の間に見えるかすかなもののように断片化され、空間そのものに溶け出してしまったかのように感じられる。このときの身体は特定の具体的な対象に置き換わるのではなく漠然とした空間に溶け出した一つの器官の様な存在として置き換わる。 このように視覚や皮膚感覚の経験を通じてあらゆるものに触れることの出来る人間の視線は細部を意識しながら同時に全体を眺め、取り巻く空間の中でものの存在を意識する。視線を移動させながら常に見る事の出来ない向こう側を感じ、見えているものと見えていないものとを同時に埋めていく行為を繰り返している。 これはただものを見ているというよりは神経と記憶と触覚を駆使し、全身を一つの器官として感じようとする行為である。この時、物質は自分と受け手の間に仲介する一つの行為の形跡として存在する。 以下に掲載する作品は2005年に国際芸術センター青森のレジデンスプログラムで制作発表したもので「Layer Drawing Fog, Clowd」です(撮影:山本糾) ![]()
今回の出品作品のうちから[レイヤードローイング]を紹介します。Layerとは重なって層になっている状態を意味しますが、中西さんの作品ではその層が水平に重なっている場合と、垂直に連続している作品が存在します。今回の出品作は前者のほうで、16cm角の透明なアクリル板が16枚重なっているものです。その1枚1枚に形を変えて広がっていく状態を定着した上で重ねてあります。
下に掲載している作品はコピー用紙を燃やしていってその穴が徐々に広がっていくところを16枚のフィルムにレーザープリントして重ねていったものです。 それに下から光を当てて上から覗き込む形で鑑賞します。この種の作品について本人は以下のように書いています。 「この作品は朝日が昇る風景、アイスクリームが溶ける様子、コピー用紙が燃え広がって行った焦げ痕など、身の周りでおこる変化を一定間隔で撮影し、透明フィルムにプリントし積層したものである。時間の経過が積み重なった立体物として留める事で、常に消え去っていく過去と現在をあらゆる角度から同時に眺めることの出来る彫刻作品である。時間はあたかも人間にとって共通のもののように思えるが、人の感じ方はそれぞれで舞った無別の捉え方をしている。時間そのものは常に形も境目もなく存在し、どこかの一部で留めて捉えることの出来ないものである。この作品を見るとき、画像と画像の間にある時間と空間の隙間を自ら補おうとする行為が生まれる。自らの身体の内で欠落した時間と空間とを常に埋めて行こうとし続ける行為こそが時空間と人間の感覚との関係そのものである。とらえどころのない時間、空間というものを共通の感覚として捉えられるものにしたいと思っている。」
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